「はらいそ」という充実した傑作を作ったにもかかわらず、細野晴臣は精神的にかなり行き詰まっていたらしく、音楽を止めてしまおうと思うまで追い詰められていたようです。この時、本気で「導師(グル)を求めていた」らしいのですが、そのあたりの経過は「地平線の階段」という彼の書物に詳しく書いてあり、興味のある方は一読をオススメします。そこに収められた横尾忠則とのインタビューと、その後、彼と共に旅立ったインド旅行記が、今回紹介する「コチンの月」('78)というアルバムを理解する上で、かなりわかりやすいガイドとなっているからです。

もちろん、本を読まなくても音だけで充分楽しめるアルバムだとは思いますが、はたして当時、このアルバムを理解していた人など、どれだけいるのでしょおうか。細野晴臣横尾忠則の2人の連名で発表されたこのアルバムには、あの細野晴臣の歌声も、明確なメロディー・ラインもない、きわめて抽象的なメディテイション・ミュージックでした。このアルバムで、細野晴臣は、初めてシンセサイザーというものに向き合います。もちろんそれまでのアルバムでもシンセは使っていましたが、ここで初めて「シンセサイザーに自動演奏をさせる」という、つまり一般的にいうところの「テクノ」という概念をコンセプトとして取り組むのです。本アルバムで初めて参加した日本のシンセサイザー界を代表するプログラマー、松竹秀樹との共同作業が生まれるわけです。このアルバムでのシンセサイザーの実験の成果が、やがてニュー・ウェイブやディスコ・ミュージックの影響を受けて、あのYMOが出発していくわけです。

インド旅行にいったことで、細野は「パラダイスという幻想がなくなった」と供述しております。そしてテクノを知ったために、ミュージシャンとしてのアイデンティティーが崩れていったとも。しかし、普通なら挫折してしまうか、あるいは無視してしまうかという、その「新しい音楽」に真っ向から挑んでいったあたりが細野晴臣というミュージシャンの懐の大きさなのでしょう。

「コチンの月」で横尾忠則は演奏しているわけではありませんが、スピリチュアルな面で多大な功績をしたということで連名になっています(もちろんジャケも手がけています)。このアルバムを聴きながら、細野が味わったインド旅行の体験を照らし合わせると、非常に面白いです。コチンはインドで初めて「落ち着ける場所」だったこと。そこで見た「月」の美しさに救われた事。激しい下痢で医者に死を宣告されたにもかかわらず、「マドラス総領事夫人」の夕食会に出た「おかゆ」のおかげで1発で体調がよくなったこと、などなど。そんな彼のインド体験記を読みながら聴くと、また楽しいアルバムであります。