ご存知YMOのファースト・アルバム('78)ですが、何となく発売当時、どのようにコレが聴かれていたかを体感するために、CDではなくLPレコードで聴いているところです。ちなみにオビにはイエロー・マジック・オーケストラという文字よりデカく細野晴臣という名前が書かれており、その上には当時のアルファ・レコードのキャンペーンなのか「キャッチ・アップ・フュージョン」と書かれています。一応歌詞カードのようなものもついてますが、肝心の歌詞は載っておりませんでした。ボーカル曲もあるんですが、ほとんどヴォコーダーで歌っており、これは機械が歌っているということで「インスト・アルバム」という事になっているようです。

簡単な解説には「デジタル・コンピューターによって駆動されるシンセサイザーのおりなす万華鏡のようなサウンド」と苦し紛れに書かれてますが、どこにも「テクノ」という文字はありませんでした。YMO=テクノと認知されだしたのは実はセカンド以降のことだったようです。ちなみに3人の写真もありますが、テクノとは思えない普段着(笑)しかし全米デビューが決まり、新装ジャケで出直したファーストの方は、着物姿のアンドロイド女性のイラスト、バックはタキシード姿の3人と、随分垢抜けた印象に変わりました(とはいえ、ウェザー・リポートと同じイラストレイターというのがフュージョン時代の限界か)

ゲーム・センターのノイズ音からディスコ・ビートに乗って「ファイアー・クラッカー」が飛び出すところは、今聴いてもゾクゾクしてきます。「東風」は今聴くと涼しげなディスコ・フュージョン、「中国女」はロンドンのニューウェイヴ・バンドのようですね。B面はドナ・サマーなどのプロデュースで有名なジョルジオ・モロダーの影響か、ノン・ストップのメドレー形式になってます。そのメドレーは「マッド・ピエロ」という曲で最大の盛り上がりを見せますが、やがてまたゲーム・センターのような音に変わり、A面トップとエンドレスで繋がるという仕組み。いかにも細野メロディともいうべきエキゾチックな「シムーン」は、むしろ「はらいそ」の方が似合っているような気がします。

こういった初期YMOらしい雑種な感覚が面白いのか、海外ではYMOといえば何と言っても初期のサウンドが大人気らしいのです。実際「ファイアー・クラッカー」はアメリカのディスコで頻繁にプレイされました。当初の細野の目論見は見事に成功したわけですが、ここで予期せぬ出来事が起こりました。それは国内でYMO人気が盛り上がってきた事です。そして何と小学生までがYMOを聴くという面白い現象が起こります。実はこれには「すすめパイレーツ」や「ストップひばりくん」などの少年誌にYMOが頻繁に登場してきたことも影響があります。当時小学生だったボク自身も、YMOを知ったのは、そうしたマンガからでした。ウォークマンでYMOを聴く。これがナウ(死語)だったわけですね。YMOはやがてくる80年代の幕開けのニッポンにふさわしい見事な都市生活者のサウンド・トラックでした。

●本日の更新「ショック太郎のマテリアル・ワールド」
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一応YMOの同時代の伝説のバンド「SS」です。日本最初の最速ハードコア・パンク